はじめまして。
当ブログ管理人のゆういちろうです。
この記事では僕のプロフィールについて記しています。
「こんな人なんだー」とさらっと流していただけたら幸いです。
また、プロフィールって時間が経てば追記していくのものだと思いますので、一度観てしばらく経ったらまた遊びにきていただけると嬉しいです。
1990年2月、北海道にて爆誕。
寒すぎる大地で生まれました。
北海道は四季があって良いなとは感じます。春夏秋冬をきっちり楽しむことができる自然豊かな地域で、遊ぶには困らない素敵な場所です。
ただし、冬の寒さが厳しい季節は、最低気温がマイナス10度を超える場合もあります。
北海道で何年過ごしても、寒さに慣れるわけではないので普通にシンドイです。ウィンタースポーツをしない僕にとっては、冬シーズンはほどほどの寒さがいいなぁと思うばかりですね(苦笑
僕が生まれた1990年頃は、どういった時代だったのか。
…バブルがはじけて景気がどんどん悪くなってきたと聞いています。
確かに物心ついたころから景気が良かったという印象はなく、炭鉱の閉山話を聞いたり、大きな銀行の経営破綻があったりと、幼心に記憶が残っています。
今もたいして景気が良い印象はないですし、今後はどうなっていくんでしょうね。どうなってもいいように自己防衛に努めていきたいですね。資産を増やしていきたいです。
さて、話がそれましたが、そんな寒い北海道に住んでいた幼少期ですが、実はこれといった記憶・エピソードがほとんどありません。
というのも、友だちには恵まれていた方だと思っていますし、好きだったアニメのプラモデルを買い与えてくれたり、習い事や塾に行かせてくれたりと、大きな苦難に直面することなく、平穏に過ごすことができたと思っています。親父感謝。
強烈な良いエピソードもなければ、これといって悪い結果にも見舞われることがなかったので、幼い頃に抱いた強いエピソードというのはなかったですね。
それでも絞るように記憶をたどりましたが、思いついたのはこの程度。。。
僕は当時背が低かったので、学校での背の順ではいつも一番前だったこと。特に丈夫な身体ではなかったのでよく風邪を引いたし、運動も特別好きじゃない少年でした。
北海道特有のスノーシーズンも、スキーやスノボは「自分からやっていた」というより「やらされていた」って感じ。
下手くそではなかったと思いますが、そもそも運動は好きじゃなかったかな(苦笑
2003年4月、中学に進学。部活やりたくない病を発症
僕が進学した中学校はとても田舎で、総生徒数が100名ちょっとくらいしかない「とても寂れた学校」でした。
あまりにも生徒数が少なかったため「部活動の強制加入」というルールがあり、僕は今までやったことのない「野球部」に入部しました。
そもそも選択肢が少なく、野球の他にはバスケットボールと「なにをやっているかよくわからない文芸部」の合わせて3つしかありませんでした。
当時背の低かった僕は「バスケはやりたくないし、よく分からん文芸部はもっとないな」という謎の判断をし、消去法として野球を選んだ(というか選ばざるを得なかった)のですが、これがもう完全に「後悔した選択」でした。うーん、大人になった今でも「失敗だったな」と思います。
温度差に愕然。そんなに一生懸命する気が無いのに。
消去法で選んだほど志が低かった野球部でしたが、その実態は「目指せ全道大会!」と言わんばかりの熱量でして、とにかく練習が厳しいものでした。
可能なら部活動へは入りたくなかった僕にとっては、自分のモチベーションと周り(といっても監督やコーチだけだったけど)の熱量に大きな乖離があり、めちゃくちゃ戸惑ったというか、嫌だなーと感じた記憶があります。
したくもないのに丸坊主にされましたのが当時の僕にはショッキングでしたし(その反動が高校以降にやってくる)、とにかく一挙手一投足で「怒られる」日々だったので、ビクビクした部活動生活を送っていました。
また田舎?というか小さなコミュニティにありがちな「意味不明ルール」にも辟易した印象が強くあり、どんどんと考え方や気持ちが歪んでいった中学生時代でした。
例えば野球の試合があった際、バッターボックスでは次のようなことを行えと指導がありました。
「フライは捕られたらアウトだが、ゴロを打てば相手がミスをする可能性がある。とにかくゴロを打て。三振は論外だ」
これはまぁなんとなく分かる気がします。要は「キャッチしたらアウトになるフライよりも、ゴロの場合は野手の捕球、送球、一塁手のキャッチと工程が増えるので、相手がミスする可能性が広がる」という考え方であり、相手のミスさえもチャンスに変えれば塁に出られると言った主旨でした。
僕はこの教えに基づいて、「セカンドゴロを打つ」ことに終始していました。ヒットを打つ気はなかったですね。塁に出るとランナーとして怒られる可能性が増えるので、とにかくセカンドの正面にゴロを打つことに目標としていました。全然楽しくなかったなぁ苦笑
また、練習の開始時刻についてはこんなふざけたルールがまかり通っていました。
「練習の開始は9時から始める。監督・コーチは30分前にグラウンドに来るから、中学3年生はその30分前に集まりなさい。3年は8時に来るから2年はその30分前に来なさい。1年は何時にくるか分かるよな?」
これはもう完全に悪しき風習ですね。結果的に1年生は2時間前にこなきゃいけないですから。なんだそれ?って僕も中学生ながらに感じた記憶があります。さすがに親たちもやり過ぎだと思ったのか、学校側に話を通して、僕が3年くらいのときにこの習慣はなくなったと記憶しています。
とまぁこんな感じで、今思えばブラック企業も顔負けの内容だったので、周りの反応もあまり良いものではありませんでした。「奴隷じゃん」的なことを他の部活の生徒に言われたことを記憶しています。
それでも僕は変なところが真面目というか、律儀というか…ふてくされて辞めちゃえばよかったのですが、そういう考えにはならず、3年間野球をやり遂げました。かといって前向きな気持ちにもなれなかったので「野球は楽しいモノじゃない」「怒られないように目立たないように行動しよう」「言われたことを、きっちりこなそう」「数学の成績は良いものを残そう(当時の監督が数学担当教員だった)」「真面目にやっていれば大丈夫」etc… という気持ちを抱きながら、なかなかに歪んだ考えで日々を過ごしていました。
部活動に入ったのは今でも「失敗だな」とは思っていますが、不幸中の幸いだったのは「勉強をする習慣がついたこと」でした。テストの点数が低いわけには行かなかったので(怒られるから)、おかげで学校の成績はまずまずでしたね。
気持ちはずっと晴れないままだったので、中学時代は「遊んだ」という記憶が全然なく、野球と勉強に終始した3年間でした。
楽しい記憶はなかったなぁと、今思うと凄く後悔しています。嫌でもやり続けた「忍耐力」というのは身に付いた気もしますが、当時の3年間を捨ててしまった感覚が強いので、もし自分に子供ができた際には、助言をしておこうと強く感じるところですね。
2006年4月、高校進学。反動によりめっちゃ怠ける。
中学の暗黒時代では良くも悪くも勉強をする環境があったため、学校内の順位も上位をキープし、高校もまずまずなところに進学できました。(と言っても田舎の小さな範囲内で良い学校だったというわけだけど)
ただ反動は大きなもので、もう強烈に「ダラダラ」した高校生活を送るようになりました。
野球部からの反動か、高校ではまず髪の毛を伸ばしたりパーマ当てたりして遊んでましたね。坊主嫌だったですし苦笑
部活動も入る気がなかったのですが、当時の担任に「なにかに入っておけ」と言われたのでテニス部を選んで入部したのを覚えています。
テニス経験は全くないし、やる気も全然なかったのでほとんど幽霊部員でしたけど苦笑
練習も行きたい時だけ行って、それ以外はカラオケに行くか、どこかで飯を食うか、ゲーセン行くかとか、そんな感じ。よくあるダルダルの高校生って感じでしたね。
そしてこういう生活をしていて当時の僕が思ったのが、「自分で選べるって最高」でした。
部活に入るも入らないのも自分で決められる。今日部活に行くか行かないかも自分で決められる。
そんな感覚は中学時代にはなかったので、僕はもうみるみるうちに「なにもやらないを選ぶ人」になっていきました。
2008年4月、札幌の大学に進学
高校では友人にも恵まれ普通の高校生でいることができたと思っていますが、代わりに勉強を全くしてこなかったため、成績は惨憺たる結果でした。
しかしなんとか札幌の大学に進学することができ、田舎者の僕にとってはめちゃくちゃ人の多い「大都会札幌(笑)」にて一人暮らしをすることになりました。
当時の僕は高校の時の感覚を引きずったままであり「遊びとバイトに明け暮れたぷらぷらした大学生」って感じでした。
とにかく人生で遊んでたなと思います。すすきので飲み歩いていた気もするし。今はすっかり落ち着いてしまいましたが、髪の毛も茶髪でしたし、ずいぶんと大学生をしていましたね。
高校で学業を怠ってしまい、その気持ちを引きづったまま大学生になったので、大学の成績もけして良い結果ではありませんでした。しかし手を抜きつつも留年することのないほどには単位は取っていましたので、要領が良いというか、抜くところと引き締めるところの線引きはできていたのかと思います。
今思うと、本当にどこにでもいる大学生って感じでしたね。学校行って、遊んで、バイトして…
没個性的な量産型といった大学生でした。
2014年9月 YouTubeチャンネルを開設
大学を卒業し社会人として数年が経過したころです。
特別充実しているわけではなかったですが、塩をなめるほど困窮に喘いでいたわけでもない「ただのサラリーマン」に僕はなっていました。
幼い頃からずっと「○○になりたい」とか「やりたいことがある」といった強い意志がないので、仕事選びも「家から近い」とか「少しでもラクかな」という理由で就職活動をしていました。
志が低空飛行の僕にとっては、仕事は「食っていくため」にやっているでしかなかったですね。
主体性もなければ考えることもしない「家と会社の往復だけをしてる人」でした。
当然「出世願望」とかもなかったですね。欲しかったのはお金だけでした苦笑
そんな感じだと「このまま40年近く繰り返すのか」という思えば不安がよぎり、モヤモヤとした気持ちがどんどん濃くなっていくばかりでした。
だからといって解決策が思い浮かぶわけでもなくて、特別な才や学もないので「このまま歳取るのかなー」と立ちすくむだけ。
少しずつ沈んでいくような感覚がありましたが、そんな鬱々とした時に出会ったのがYouTubeでした。
良い趣味を見つけた。楽しい!が原動力だと知る。
興味がある、楽しい!と思う程度に、PCやカメラなどのガジェット製品は昔から好きでした。
YouTubeを始める前からiPhoneやMacBook、一眼カメラなどはちょくちょく購入していましたし、何かを購入するときは「YouTubeを検討材料にする」ようにしていました。
そこから派生するように様々なYouTubeを見るようになり、程なくして「僕もやってみたい」と思うようになったのがきっかけです。
やるにあたって色々調べてみると、機材的なハードルが小さかったので(すでにある程度持っていたから)、思い切って投稿を開始。最初の投稿した動画は「iPhone6買ってみた!」でした。
そして3本目に投稿した動画(【2015】ヨドバシカメラ福袋「一眼レフデジカメの夢」買ってみた!)にて、初めて1万回以上再生されて「いろんな人に見て貰えて嬉しいなー」と感じたのを今でも強く記憶に残っています。
またこの動画がきっかけでYouTubeの収益化も決まり(当時は収益化の基準が今より低かった)、「趣味で動画投稿したらちょっぴりお小遣い貰えるようになった」という感覚が活動の後押しをしてくれました。
その後は「やりたいときに動画を投稿する」といったスタンスで、熱があるときはめちゃくちゃ動画をだしたり、休むときは1ヶ月くらい休んだりと波のあるチャンネルとして運営してきましたが、YouTubeを初めてからいろんなことが楽しくなったり、友人関係が広がったりしたのが良い経験でしたね。
現在では5000名を超える方にチャンネル登録をしていただき、僕の生活を「ちょっぴり楽しくする」コンテンツとして、楽しくチャンネル運営ができていると考えています。
打ち込める楽しさが、日々の彩りを変える
YouTubeを始めたからと言って仕事が楽しくなることはないですが、「趣味に打ち込める楽しさ」があると、日々の生活に色が乗るような感覚があります。
次はどんな動画を撮ろうかと考えるとワクワクしますし、こういう高揚感が毎日を明るくするのかなと考えるようになりました。
才能があるわけでもなく、お金持ちでもなく、イケメンでもないサラリーマンの僕ですが、YouTubeに動画投稿をして色々な方に視聴していただくことや、同じような動画投稿者とつながりを持つことができたのは「財産」だなーと感じるばかりです。
2021年。今後のインターネット活動について
楽しくYouTube活動ができた6年間でしたが、2021年はこれまでとは違った活動をしたいと考えています。
その一つが当ブログ「L-Blend」
もっと多くの方に見て欲しい!という気持ちが年々大きくなってきたので、活動の場を増やすという意味でブログの開設をしました。
2020年は僕が30歳になったことや、結婚をしたことなど、人生の分岐点というか“節目”だと感じる一年でした。
これといって特徴のない、波がない平々凡々な人生を歩んできた僕ですが、大切にしたい存在ができて、これからの毎日がめちゃくちゃ彩り豊かになりました。
こんなに素敵な毎日は、さすがに頑張りないとバチが当たってしまいますし、楽しまなければ損だと考えています。
L-Blendを立ち上げて、これから訪れる「楽しい」をどんどん発信して行きたいと思っていますし、YouTubeチャンネルの更新も引き続き行っていきますので、今後もどうか、お付き合いください。